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アンダーヒル (USS Underhill, DE-682) は、アメリカ海軍の護衛駆逐艦。バックレイ級護衛駆逐艦の1隻。艦名は珊瑚海海戦で戦死した海軍パイロットのサミュエル・アンダーヒルに因む。 ==艦歴== アンダーヒルは1943年9月16日にマサチューセッツ州クインシーのベスレヘム・スチール社、フォアリバー造船所で起工、1943年10月15日にデヴィッド(バーサ)・アンダーヒル夫人(アンダーヒル少尉の叔母)によって命名、進水し、1943年11月15日に艦長シドニー・R・ジャクソン少佐の指揮下就役した。 公試および乗員の訓練後、アンダーヒルはボストン海軍工廠に移動し食料および弾薬を補給する。1943年12月2日にバミューダに向けて出航し、訓練および整調後1944年1月10日にボストンに帰還、小修理を行う。1月17日に再びボストンを出航し、22日にグアンタナモ湾に到着するとカリビアン・シー・フロンティアに合流する。アンダーヒルはトリニダードおよびグアンタナモ湾で船団護衛任務に5月後半まで従事し、その後ジョージ・ワシントン (''SS George Washington'') の護衛としてジャマイカのキングストンからマイアミに向かう。 1944年5月30日にボストン海軍工廠に帰還したアンダーヒルは魚雷発射管が撤去され、ボフォース40mm対空砲が取り付けられた。加えて2機の20mm対空砲が船尾部に装着された。アンダーヒルの新たな任地は地中海となる。フランス南部から出撃していたドイツ空軍のユンカースJu88急降下爆撃機は雷撃機に転換され、イギリス、フランスの輸送船団に対して打撃を与えていた。 メイン州カスコ湾での訓練演習後、アンダーヒルは独立記念日の夜明け前にハンプトン・ローズを出航し、地中海に向かう UGS 47船団の護衛任務に就く。長く平穏な大西洋での航海でアンダーヒルは戦闘訓練を指揮し、ソナーによる調査を行った。地中海での7月21日および22日に何度かの空襲警報が発せられたが、実際に敵の攻撃に遭遇することはなかった。船団後尾の3隻がドイツ空軍機による攻撃を受けた。 アンダーヒルはその後チュニジアのビゼルトとアルジェリアのオラン間の輸送船団護衛任務に従事する。ビゼルトへの最初の巡航では、アンダーヒルは夜通し全速力で航行し、Uボートとドイツ空軍機の警戒する海域を通過した。数日後、南フランスへの侵攻作戦が開始する。アンダーヒルは調査任務を担当した。ビゼルトへ帰還する途中、海峡に沈没した船に衝突し、左舷プロペラと軸を損傷した。7月17日にオランに到着、応急修理が行われ、8月5日に北アフリカに向けて出航する。6日の早朝に GUS 47 船団に合流し、同船団は8月18日無事ニューヨークに到着した。その6日後、ジャクソン艦長に代わってロバート・M・ニューコム少佐が艦長に着任した。 9月には UGS 54 船団と共にイギリスのプリマスに向かう。アンダーヒルは何事もなく10月にプリマスを出航した。イギリス海峡を通過中に、ソナーの感知が確認された。数時間にわたって爆雷が投下されたが、何も生じなかった。しかしこの投下中に、アンダーヒルは海中の物体(恐らくUボート)と衝突し、ソナー部分を損傷した。アンダーヒルはプリマスで乾ドック入りしたものの、イギリス軍は必要な修理を行うことができず、アンダーヒルは戦車揚陸艦の部隊と共にボストンへ帰還した。 11月にはボストンからメルセルケビールへ向かう UGS 60 船団の護衛を行い、その後オランの沖合でフランス海軍の潜水艦ドリスと共に対潜水艦戦闘訓練を行った。12月3日に GUS 60 船団と共にアルジェリアの港を出港し、12月21日にニューヨークに到着、同日ブルックリン海軍工廠に入る。1945年1月8日にコネチカット州ニューロンドンを出航し、大西洋艦隊潜水艦部隊へ一時的に配属された。アンダーヒルはニューロンドンを拠点として、ブロックアイランド・サウンドおよびロングアイランド・サウンドで対潜水艦戦闘訓練、潜水艦の護衛に従事した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンダーヒル (護衛駆逐艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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